想定読者

  • 公共政策や社会問題の解決に行動経済学の知見を活かしたい方
  • 従業員や顧客の行動をより良い方向へ自発的に促したいリーダーやマーケター
  • 人の意思決定の仕組みを理解し、より良い選択ができる個人になりたい方

結論:人は不合理な生き物である。だからこそ賢い「選択の設計」が必要だ

もしあなたが人々の行動をより良い方向へ変えたいと考えた時、どのような方法を思い浮かべるでしょうか。

多くの人は「ルールで禁止する(強制)」か「罰金やインセンティブで釣る(経済的誘因)」という二つのアプローチを考えがちです。しかしこれらの方法は時に強い反発を招いたり、コストがかかりすぎたり、あるいは監視がなければ効果がなかったりします。

ここに第三の、そしてより賢明なアプローチがあります。それが2017年にノーベル経済学賞を受賞したリチャード・セイラ―が提唱する「ナッジ(Nudge)」という考え方です。

ナッジとは英語で「(注意を引くために)肘でそっとつつく」ことを意味します。その名の通り人々を強制したり厳しく罰したりするのではなく、彼らが自発的により良い選択をしたくなるように、その「選択の環境」をデザインしそっと後押ししてあげるというアプローチです。

この思想の根底には「人間は常に合理的な生き物ではない」という行動経済学の基本的な人間観があります。私たちは不合理で忘れっぽく、つい目先の誘惑に負けてしまう弱い生き物です。だからこそその弱さを理解した上で、私たちが転ばないようにそっと手すりをつけてあげるような、賢明で優しい「選択の設計(チョイス・アーキテクチャー)」が必要となるのです。

小便器の「ハエの絵」が世界を綺麗にした話

この「ナッジ」の最も有名で象徴的な事例が、オランダのアムステルダム・スキポール空港の男子トイレで起こりました。

当時この空港は男性用小便器の周りの床の汚れに頭を悩ませていました。「一歩前へ」といった注意書きを貼っても効果はありません。

そこに一人の経済学者が、ある奇妙な提案をしました。 「小便器の内側に一匹のハエの絵を描いてみてはどうだろうか」

結果は劇的でした。男性は無意識のうちにその「的」であるハエを狙うようになり、便器の外への飛び散りが実に80%も減少したのです。清掃コストは大幅に削減されました。

これこそが完璧な「ナッジ」です。

  • 誰かを強制してはいない(狙わなくても罰せられない)。
  • 金銭的なインセンティブもない
  • しかし人間の男性が持つ「的を狙いたい」という本能を利用し、行動を劇的に変えた。
  • そしてそれは誰にとってもより良い結果をもたらした。

代表的な「ナッジ」の手法

この「ハエの絵」のように私たちの行動を変えるナッジは、いくつかのパターンに分類することができます。その多くはこれまでこのシリーズで解説してきた心理効果の応用です。

  1. デフォルト(初期設定)の活用 これは最も強力なナッジの一つです。以前解説した通り人は「何もしない」を選びがちです。その習性を利用し社会にとって望ましい選択肢をあらかじめ「初期設定」にしておくのです。例えば企業の退職金制度で「自動的に積み立てに加入する」をデフォルトにし、辞めたい人だけが手続きをするようにしただけで積立加入率は劇的に向上しました。
  1. 情報の提示方法の工夫(フレーミング) 同じ情報でもその「見せ方」によって人の判断は大きく変わります。「この手術の成功率は90%です」と言われるのと「この手術の失敗率は10%です」と言われるのでは、前者の方がはるかに安心感を与えます。これは利益を強調する「ゲイン・フレーム」のナッジです。
  1. 社会的証明(みんなの行動)の利用 人は「みんながやっていること」を正しいと思いがちです。イギリスの税務当局は納税が遅れている人々への督促状に「あなたの地域の90%以上の人々はすでに期限内に納税を済ませています」という一文を加えるだけで納税率を大幅に改善させることに成功しました。
  1. 分かりやすさとフィードバック 省エネを促すために電気代の請求書に「あなたのご家庭の電気使用量はご近所の平均よりも多いです」と分かりやすい比較情報を加える。あるいは安全運転を促すためにシートベルトを締めないと警告音が鳴り続けるように設計する。これらもすべてより良い行動を促す優れたナッジです。

よくある質問

Q: ナッジは人を操作するマインドコントロールのようなものではないですか?

A: これはナッジに対する最も重要で本質的な問いです。ナッジの提唱者たちはこう反論します。「選択の環境(チョイス・アーキテクチャー)はいずれにせよ常に存在する」と。つまりウェブサイトのボタンの配置、メニューの順番、申込書の書式。それらはすべて意図的か無意識的かに関わらず、すでに私たちの選択に何らかの影響を与えているのです。であればその影響力を自覚した上で、人々が彼ら自身が望むであろうより良い選択(より健康に、より裕福に、より幸せになる選択)をできるようにデザインすべきではないか。それがナッジの倫理的な基本思想です。

Q: ビジネスでナッジを使う際の注意点は?

A: 「透明性」と「善意」が鍵となります。もしあなたがナッジを悪用し顧客を騙して不要なものを買わせたり、不利な契約を結ばせたりすれば、長期的には必ず信頼を失います。ナッジはあくまで顧客がより良い選択をするのを「手助け」し、その結果として自社の利益にも繋がるという「Win-Win」の関係を目指すべきです。

Q: 自分自身の行動を変えるためにナッジを使えますか?

A: はい。それこそがナッジを学ぶ最大のメリットの一つです。あなたはあなた自身の「選択の設計者」になれるのです。健康的な食生活を送りたいなら果物を目のつくテーブルの上に置き(ナッジ)、クッキーは手の届きにくい棚の奥にしまう。運動を習慣にしたいなら寝る前にジムウェアを枕元に置いておく(ナッジ)。望ましい行動がより簡単になるように自らの環境をデザインするのです。

Q: 「デフォルト効果」と「ナッジ」は何が違うのですか?

A: 「デフォルト効果」は数ある認知バイアスの一つです。一方で「ナッジ」とはデフォルト効果や損失回避、社会的証明といった様々な行動経済学の知見を応用して人々の行動をより良い方向へ導くための具体的な介入手法、あるいはその思想全体を指します。「賢いデフォルトを設定すること」は数あるナッジの中でも最も代表的で強力な手法の一つと言えます。

筆者について

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