想定読者
- 「無料お試し」や「返金保証」といったマーケティング戦略の心理的な効果を深く理解したい方
- フリマアプリなどで自分の持ち物の「値付け」にいつも悩んでしまう方
- 交渉の場で相手がなぜ自分の持ち物を手放したがらないのか、その理由を知りたい方
結論:私たちはモノの「客観的な価値」ではなく「失う痛み」を価格に上乗せしている
あなたはフリーマーケットで長年愛用した思い出のマグカップを売ろうとしています。あなたなら最低いくらの値段をつけますか?
一方でその隣であなたと全く同じマグカップが商品として売られています。あなたはそれをいくらまでなら買っても良いと思いますか?
もしあなたが多くの人と同じ心理状態にあるならば、不思議なことにあなたが「売りたい値段」はあなたが「買いたい値段」を大幅に上回っているはずです。
この人間が一度自分が「所有」したものを客観的な価値以上に高く評価してしまう心理現象。それが「保有効果(Endowment Effect)」、またはエンダウメント効果と呼ばれるものです。
私たちは合理的にモノの価値を判断しているのではありません。一度「自分のもの」になった瞬間にそのモノには特別な「感情的な価値」が上乗せされます。そしてそれを手放すことは「利益を得る」という喜び以上に「愛着あるものを失う」という強い痛みを伴うのです。私たちはその「失う痛み」の対価を無意識のうちに売値に上乗せしてしまっているのです。
マグカップの値段が2倍に跳ね上がる不思議な実験
この保有効果の存在を世界で初めて明確に証明したのが、行動経済学の父ダニエル・カーネマンらが行った有名な「マグカップ実験」です。
実験は大学の教室で学生を2つのグループに分けて行われました。
- グループA(売り手): 大学のロゴが入ったごく普通のマグカップ(市場価格は6ドル程度)を無料でプレゼントされます。そしてその直後に「あなたならこのマグカップを最低いくらでなら売りますか?」と質問されます。
- グループB(買い手): マグカップは与えられません。彼らはグループAの学生が持っているマグカップを見せられ、「あなたならこのマグカップを最高いくらまでなら買いますか?」と質問されます。
客観的に考えれば同じマグカップの価値は売り手にとっても買い手にとっても同じはずです。しかし実験の結果は驚くべきものでした。
売り手グループが提示した価格の中央値が約7ドルであったのに対し、買い手グループが提示した価格の中央値はその半分以下の約3ドルだったのです。
この実験が示したのは人間はあるモノを「所有」したただそれだけの事実によって、そのモノに対する評価額を2倍以上に跳ね上げてしまうという衝撃的な事実でした。
なぜ「自分のもの」はこれほどまでに愛おしいのか
この不合理なほどの「愛着」はいくつかの基本的な心理バイアスによって説明することができます。
- 損失回避(Loss Aversion) これが保有効果の最も根本的なエンジンです。買い手にとってマグカップを手に入れることは単なる「利得」です。しかし一度マグカップを所有した売り手にとってそれを手放すことは明確な「損失」となります。そして以前の記事でも触れた通り私たちの心は「利得の喜び」よりも「損失の苦痛」を2倍以上も強く感じます。売り手はこの「失う痛み」を埋め合わせるためにより高い価格を要求してしまうのです。
- 所有権との感情的な結びつき 一度「私のもの」になるとそのモノはもはや単なる客観的な物体ではありません。それは私たちの自己イメージの一部となり感情的な繋がりが生まれます。特に長く使っていたり思い出が詰まっていたりすれば尚更です。その「感情的な価値」が客観的な市場価値に上乗せされてしまうのです。
- 現状維持バイアス(Status Quo Bias) マグカップを「持っている」という状態が心地よい「現状」となります。それをわざわざ「売る」という変化を伴う行動を取るには、現状を大きく上回るほどの強い動機(=高い価格)が必要になるのです。
「保有効果」をマーケティングに応用する
この強力な心理効果を理解すれば、顧客の「所有欲」を刺激し購買へと後押しするための様々な戦略が見えてきます。
- 「無料お試し期間」と「試着・試乗」 これらは保有効果の最も強力な応用例です。顧客にお金を払う前に「擬似的な所有体験」を提供します。30日間無料で使い続けたソフトウェアはもはや他人事ではなく「私の仕事の一部」になっています。試着室で完璧にフィットした洋服はもはや店の所有物ではなく「これを着て出かける未来の私」のものです。お試しの期間が終わった時、顧客の頭の中の問いは「これを新しく手に入れるべきか?」から「すでに私のものになっているこれを失っても良いのか?」へとすり替わっているのです。
- 顧客に「カスタマイズ」させる 商品の色を選ばせたり名前を刻印させたり、機能を自分で組み合わせさせたり。顧客に商品開発のプロセスに少しでも関与させることで、彼らはその商品が手元に届く前から強い「所有感」を抱き始めます。自らの時間と創造性を投資したその商品はもはや単なる既製品ではなく「私の作品」となるのです。
- 触れる・体験できる売り場作り ECサイトの利便性には敵わないかもしれません。しかし物理的な店舗が持つ最大の強みは顧客が商品を実際に手に取り、触れ、体験できることです。Apple Storeがあれほど自由に製品で遊べる空間をデザインしているのは、まさにこの保有効果を狙ってのことです。製品に触れ操作することで顧客の心の中には確かな「所有感」の芽が育っていくのです。
よくある質問
Q: 「損失回避」と「保有効果」は何が違うのですか?
A: 両者はコインの裏表のような非常に密接な関係にあります。「損失回避」が「損失は利得よりも痛い」というより広範な心理原則を指すのに対し、「保有効果」はその原則が「所有物」という特定の対象に対して現れた具体的な現象と考えることができます。私たちが自分の持ち物を過大評価するのは、それを手放すことが「損失」として認識されるからなのです。
Q: フリマアプリで自分の持ち物が高く売れないのはこのせいですか?
A: まさにその通りです。保有効果が最も分かりやすく現れるのがフリマアプリでの個人売買です。売り手であるあなたは、その古着にまつわる思い出や愛着といった「感情的な価値」を価格に上乗せしています。しかし買い手にとってはそれは単なる「中古の服」であり、客観的な価値しか見えていません。この売り手と買い手の認識のギャップこそが保有効果なのです。
Q: この効果は経験を積めば克服できるのでしょうか?
A: 興味深いことにプロのトレーダーのような売買の専門家でさえこのバイアスの影響を受けることが研究で示されています。ただしその度合いは一般の人よりは小さいようです。「自分のもの」への愛着を完全に切り離すことは非常に難しいのです。最も有効な自己防衛策は常に「もし自分がこれを持っていなかったとしたら、今日いくらでこれを買うだろうか?」と自問自答するクセをつけることです。
Q: 従業員の「自分の仕事」への固執もこれに関係しますか?
A: 非常に鋭いご指摘です。はい、大いに関係します。人は自分が長年担当してきた仕事のやり方やプロジェクトを「自分のもの」だと感じ、過大評価する傾向があります。そして新しいやり方が客観的に優れていたとしても、慣れ親しんだ「自分のやり方」を手放すことに強い抵抗を感じるのです。これもまた組織変革の現場で頻繁に見られる保有効果の一つの現れと言えるでしょう。
筆者について
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